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生活情報 岡山といえば桃太郎!吉備の国に伝わる2つの「温羅伝説」

岡山といえば桃太郎!吉備の国に伝わる2つの「温羅伝説」

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更新日:2016年12月09日

桃太郎の鬼退治で知られる「桃太郎伝説」。このお話の元となっているのが、吉備の国(岡山県総社市)に伝わる「温羅伝説」だと言われています。面白いことに、現代では2種類の温羅伝説が伝わっており、残されている数多くの史跡の調査が続けられています。

『吉備津宮縁起』の温羅伝説

吉備津神社 に伝わる『吉備津宮縁起』によると、崇神天皇の頃、百済の王子「温羅(うら)」が、飛行して吉備の国にやってきました。身の丈4.2メートルの大男で、獣のように両目が輝き、伸ばした髪や髭が燃えるように赤かったそうです。

温羅は「鬼ノ城」を住みかとし、悪事を働いて民を苦しめていました。そこで人々は大和朝廷に退治を申し出て数々の武将が送りこまれましたが、みんな打倒されてしまいます。
そこで登場するのが、武勇に優れた吉備津彦命(きびつひこのみこと)でした。

温羅と吉備津彦命の戦いはすさまじく、中々決着がつきませんでした。
※このときの戦いで、吉備津彦命の放った矢と、温羅が投げた岩が空中でぶつかり合って落ちた場所といわれているのが、吉備津神社と鬼ノ城の中間地点にある矢喰宮です。

そこで吉備津彦命が一度に2本の矢を放つと、そのうちの一本が温羅の左目に命中し、温羅の左目から川のように血が流れました。これがのちの血吸川と言われています。

形勢不利と見た温羅は、雉に化けて山中に隠れますが、吉備津彦命は鷹となって追いかけます。
追い詰められた温羅は今度は鯉に化けて、血吸川に姿をくらませます。すると吉備津彦命は鵜となって温羅に食らいつき、見事温羅を捕らえます。
※吉備津彦命が温羅を捕らえた場所が鯉喰神社として伝わっています。

温羅は首をはねられて、その首は首村(岡山市首部)に串刺しでさらされます。

ところが不思議なことに、何年たっても首は唸り声をあげ続けます。そこで吉備津神社の「御竈殿(おかかまでん)」の下に埋められましたが、やはり止みません。

そしてさらに13年が経ったある夜のこと、吉備津彦命の夢に温羅が現れてこう言いました。
「妻の阿曽郷(あぞごう)の娘、阿曽媛(あぞひめ)に神饌(みけ)を炊かせよ。そうすればこれまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう」と。

これが吉備津神社の「鳴釜神事(なるかまのしんじ)」として、今でも伝わっています。

『吉備津彦神社縁起』の温羅伝説

そしてもう一つ、吉備津彦神社 に伝わる『吉備津彦神社縁起』によると、ある日朝鮮半島から身長2メートルを超える大男と、その大勢の仲間が吉備の中山にたどり着きます。

大陸の王子とされる大男は「温羅」と呼ばれ、髭面で言葉が通じず、よく怒るので、いつしか周辺の民からは「鬼」と呼ばれるようになりました。

ある時、温羅と仲間の傍を、大和朝廷に貢物を運ぶ人が通りかかります。温羅が貢物の行き先を聞いたところ、荷を運んでいた人は鬼に襲われたと勘違いして逃げ帰ってしまいます。

これが大和朝廷と温羅の戦いのきっかけとなり、吉備津彦命は三匹のお供のモデルになったとされる「犬飼武(犬)」、「留玉姫(雉)」、「楽々森彦(猿)」を引き連れて温羅討伐に乗り出します。

そして温羅は上記のような戦いの末に鯉喰神社で敗れるのですが、ここから先が少し違っていています。

温羅はその後、殺されることなく吉備津彦の家来となり、 優れた製塩、製鉄技術や武力で吉備津彦に尽くしたとされています。

温羅は民を苦しめた鬼神だったのか、はたまた「吉備冠者」と呼ばれる造船技術や製鉄技術を百済から伝えた異国の民だったのか。それは定かではありませんが、現在でもこうしてゆかりの地が残っているのはなんだか不思議ですよね。

ぜひ吉備津彦命と温羅の戦いに思いを馳せながら、温羅伝説ゆかりの史跡をめぐってみてはいかがでしょうか。